十郎りんご 過去の記事
中国の若者が綴る"感知日本 "―中国語の「作文コンクール」一等賞決定― ⑥[2011年12月06日(Tue)]

一つのりんごと一通の手紙


四川省 王丹青

 少しだけ複雑な感情と眼差しで、私はずっと黙々と日本に関心を持っている。日常会話で日本の話題が出ることは多いものの、2008年の"5.12"汶川大地震までは、日本と私個人との間に何か直接的な繋がりができるなどと思ったことはなかった。

 ブン川大地震の発生当時、私は18歳で、四川綿陽高校で大学入試に備えているところだった。突然の天災で全てが狂わされ、落ち着いていた心もかき乱された。まるで激しく揺れ動く夢の世界に身を置いているような感覚がして、頭がぼうっとした。地震から回復しつつあったある日、甥から大きな赤いりんご一つと一枚の紙をもらった。姉によると「日本人からよ」とのことだったが、不思議に思ってその紙を読んでみると、おおよその内容とは...

 「皆さん、最近いかがお過ごしですか。寒くなってきたので、お体にお気をつけてください。日本のWYと申します。居ても立ってもいられないので、私に出来ることをすることにしました。私が摘んだりんごを皆さんに送ります。お爺さん、お婆さん、頑張ってください。今こそ、あなた方の人生経験がものを言う時です。お父さんお母さん、今こそ、目下の人達に強さを見せる番ですよ。若者の皆さん、自分達の素晴らしい郷里を築くために奮起してくださいね。よい子のみんな、怖がらないで、力を合わせれば、何でもできますからね。このりんごは普通のりんごではありません。父のWJが生前に荒れた山を耕して植えた樹になったものなのです。生命力の強いりんごで、希望に満ちた果実なのです。財産より身体、身体より精神が重要です。冬はいつしか過ぎ去り、必ず春が訪れます。これは私達人類全体にとっての災難であり、全員の苦痛なのです。一緒に戦わせてください。頑張って!心から声援を送ります。 

WYとその仲間達より


 感動と共に少し震撼を覚えた。私は長い時間ものを言わず、日中間のたくさんの事を一気に連想し、汶川大地震と関係した日本に関する情報を連想した。それまでも中日関係がらみの報道を見聞きすることはよくあったが、どうせ国同士の関係は、私個人の実際の生活からは遠いものだと思っていた。なので、一面識もないWさんが手ずから摘んだという、幸運と平安を表すりんごが私の手に届いた時には驚いた。まさか私自身の身にこんなことがあるとは。

 災難を味わった人は感性が鋭くなるのかもしれないが。長い間考えてから、私はこの「小さな出来事」と自分の感想を"人人網"に書き込んだ。多くの友人がその書き込みを見て、震災後に彼ら自身が味わったり聞いたりした日本人の善意を"晒し"た。みんなの気持ちは驚きに似たもので、まずは感動し、それから以前の偏見や誤解を後ろめたく感じるというものだった。

 時間が過ぎるのは早いもので、瞬く間に2011年となった。3月のある午後、同級生に「日本が大変だ、地震だよ」と言われ、私はぎょっとした。無情な地震と津波が日本を襲ったとは。同じような経験と痛みを味わった私には、他人事ではなかった。寝室に戻ると、私は、狂ったように日本の地震に関する情報を全て調べ、サイトを更新して、日本に留学している友人の最新情報を待った。その後、中国政府が日本の被災地にたくさんの物資を寄付したこと、多くの中国人が日本の被災者に募金したことをニュースで見た。時間の大きな傷口が裂けたように、私は3年前の5月に引き戻された。死傷者数は絶えず増え続け、テレビが映す惨状に心が痛んだ。時空が倒錯して混乱した私には、2011年と2008年との区別も、3月11日と2008年5月12日との区別も、宮城や福島と映秀や北川との区別もつかなくなってきた...唯一はっきりしていたのは、また多くの命が絶たれ、多くの家庭が崩壊し、多くの人々が居場所を失い、多くの心が苦しみ壊れていることだけ...

 手摘みのりんごと真心あふれる手紙が万里の彼方から他国の高校生に届いた。そこには、うわべだけの親切もパフォーマンスもなく、あったのは真心だけだった。"りんご事件"以来、日本に対する私の認識と見方には密かに変化が現れている。その時の手紙はずっと大切に財布の中にしまってあって、人間性の輝きとは、自然災害に破壊された中で益々きらめくものである、ということを思い出させてくれる。

中国四川省と私

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父が他界を機に作ってきたリンゴ
16年
長いようなあっと言う間だったような
そんな記事をブログに載せていました。実は今日気付いたのですが、、
コメントが来ています!
でもわから無い字や英語です!
何て書いているのかな〜(ーー;)
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リンゴの絆 中国と私

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中国の若者が綴る"感知日本 "―中国語の「作文コンクール」一等賞決定― ⑥[2011年12月06日(Tue)]

一つのりんごと一通の手紙


四川省 王丹青

 少しだけ複雑な感情と眼差しで、私はずっと黙々と日本に関心を持っている。日常会話で日本の話題が出ることは多いものの、2008年の"5.12"汶川大地震までは、日本と私個人との間に何か直接的な繋がりができるなどと思ったことはなかった。

 ブン川大地震の発生当時、私は18歳で、四川綿陽高校で大学入試に備えているところだった。突然の天災で全てが狂わされ、落ち着いていた心もかき乱された。まるで激しく揺れ動く夢の世界に身を置いているような感覚がして、頭がぼうっとした。地震から回復しつつあったある日、甥から大きな赤いりんご一つと一枚の紙をもらった。姉によると「日本人からよ」とのことだったが、不思議に思ってその紙を読んでみると、おおよその内容とは...

 「皆さん、最近いかがお過ごしですか。寒くなってきたので、お体にお気をつけてください。日本のWYと申します。居ても立ってもいられないので、私に出来ることをすることにしました。私が摘んだりんごを皆さんに送ります。お爺さん、お婆さん、頑張ってください。今こそ、あなた方の人生経験がものを言う時です。お父さんお母さん、今こそ、目下の人達に強さを見せる番ですよ。若者の皆さん、自分達の素晴らしい郷里を築くために奮起してくださいね。よい子のみんな、怖がらないで、力を合わせれば、何でもできますからね。このりんごは普通のりんごではありません。父のWJが生前に荒れた山を耕して植えた樹になったものなのです。生命力の強いりんごで、希望に満ちた果実なのです。財産より身体、身体より精神が重要です。冬はいつしか過ぎ去り、必ず春が訪れます。これは私達人類全体にとっての災難であり、全員の苦痛なのです。一緒に戦わせてください。頑張って!心から声援を送ります。 

WYとその仲間達より


 感動と共に少し震撼を覚えた。私は長い時間ものを言わず、日中間のたくさんの事を一気に連想し、汶川大地震と関係した日本に関する情報を連想した。それまでも中日関係がらみの報道を見聞きすることはよくあったが、どうせ国同士の関係は、私個人の実際の生活からは遠いものだと思っていた。なので、一面識もないWさんが手ずから摘んだという、幸運と平安を表すりんごが私の手に届いた時には驚いた。まさか私自身の身にこんなことがあるとは。

 災難を味わった人は感性が鋭くなるのかもしれないが。長い間考えてから、私はこの「小さな出来事」と自分の感想を"人人網"に書き込んだ。多くの友人がその書き込みを見て、震災後に彼ら自身が味わったり聞いたりした日本人の善意を"晒し"た。みんなの気持ちは驚きに似たもので、まずは感動し、それから以前の偏見や誤解を後ろめたく感じるというものだった。

 時間が過ぎるのは早いもので、瞬く間に2011年となった。3月のある午後、同級生に「日本が大変だ、地震だよ」と言われ、私はぎょっとした。無情な地震と津波が日本を襲ったとは。同じような経験と痛みを味わった私には、他人事ではなかった。寝室に戻ると、私は、狂ったように日本の地震に関する情報を全て調べ、サイトを更新して、日本に留学している友人の最新情報を待った。その後、中国政府が日本の被災地にたくさんの物資を寄付したこと、多くの中国人が日本の被災者に募金したことをニュースで見た。時間の大きな傷口が裂けたように、私は3年前の5月に引き戻された。死傷者数は絶えず増え続け、テレビが映す惨状に心が痛んだ。時空が倒錯して混乱した私には、2011年と2008年との区別も、3月11日と2008年5月12日との区別も、宮城や福島と映秀や北川との区別もつかなくなってきた...唯一はっきりしていたのは、また多くの命が絶たれ、多くの家庭が崩壊し、多くの人々が居場所を失い、多くの心が苦しみ壊れていることだけ...

 手摘みのりんごと真心あふれる手紙が万里の彼方から他国の高校生に届いた。そこには、うわべだけの親切もパフォーマンスもなく、あったのは真心だけだった。"りんご事件"以来、日本に対する私の認識と見方には密かに変化が現れている。その時の手紙はずっと大切に財布の中にしまってあって、人間性の輝きとは、自然災害に破壊された中で益々きらめくものである、ということを思い出させてくれる。

中国と私

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忘れもしない中国四川省の地震
十郎リンゴの栽培は3年前に終わらせてしまいましたが、リンゴが海を越えて可愛い四川の子供達の手に渡った事は忘れません。
今、悲しい社会情勢です。
私達国民はただ政府の動きを見ているしか出来ないのでしょうか?
私は平和を願います。
今日、もう消えていると思いましたがYahoo中国を開き検索してみました。
まだ、ありました。

  • 为四川地震灾区送苹果的日本女人!

    2汏嗼箛鹰2008-12-28 14:30
  • 1 楼
    2008-12-28 14:30
    四川汶川大地震已经半年过去了。一帮在日本秋田的日本人牵挂着灾区的孩子们。 一个名叫渡边保子美容院的经营者,13年前就继承父业开始种植苹果。当年她的父亲离世时,因为没有继承苹果栽培事业的人,眼看苹果树就要被砍掉,但渡边女士说"我来种",于是接着栽培起了"十郎苹果"。据说她父亲嘱咐过她一定要用这片苹果林来多做善事。 四川地震后,渡边保子下决心将自己栽培出来的苹果全部送给灾区,让灾区的孩子们亲口尝到日本最美味的十郎苹果。于是她动员了所有可以动员的资源,也凑集了不少捐款。 日本的秋田县地处本州的北面,收获苹果的季节是在入秋的11月。如果碰巧与中国的正月相重合的话,还有可能到了2月份。渡边先生的希望是:"无论如何要在圣诞节前把苹果发出去......"。但虽说是赈灾物资,由于震后已经过了半年,不论是在中国还是日本,食品类的运费和关税都需要自己负担,而且更难的是检疫。 渡边女士的行为感动了身边的许多朋友,也出现了愿意共同负担航运费和苹果包装费的个体捐助人。在深圳这边负责接应的是田边盛治先生,他也从四川省的重灾区之一的北川县政府那里获得了接收许可,也找到了进口代理人......剩下的事情只有等待苹果的到来了。 11月11日收获开始,先将苹果运到仓库然后装箱,10公斤的箱子共装了972箱。志愿者们有的下班回来帮忙的,也有专门请了假来帮忙的,大家时常忙到夜里很晚的时候。而且12月3日...从秋田县的港口发出的满载美好愿望的十郎苹果朝着中国四川省的目的地出发了。 出港3天后...出现了问题。在中国办理进口时被通知关税额是100万日元(7万多人民币)。田边先生为此多次去蛇口中国海关交涉,由于国家规定如此,每次都徒劳而归。 眼看原有的凑款已经见底,渡边女士只好在日本重新凑集。。。然而苹果的货柜马上就要到深圳蛇口。 有些中国人对日本人的这些行为大为不解,觉得送苹果干嘛呢,那些运费啊关税之类加在一起也不少,甚至可能超过苹果本身的价值(虽然日本的苹果很贵),送现金不就得了。我认为这恰恰是意义之所在,苹果在日本人的眼里,象征的是希望,战后日本变成一片废墟,并木路子的一首叫《苹果之歌》(リンゴの呗)的歌据说让许多日本人重拾了信心。苹果的象征意义可能已经超过了"值不值得"的判断,有点美国大片拯救大兵的意味。所以我觉得我们在感动之余,还应该对这次善举投以最大的尊敬。